2015.08.07 Friday

大人になれなくて

「もともと物事というのは多面的ですから。

 

よくポップ・ソングの詞を聴いてみると、まぁ、インターネットの中にあるブログ日記のようなね、そんなもので終止しているものもすくなくないと思うんですけれども、もっともっと多面的な現実を、やっぱり多面的に表現していく、これがポエトリーであるだろうと僕は思っているんですね。

 

そこでいちばん必要なのは、ていうか欠けてるのは、ユーモアのセンスと官能だと思うよ。政治家にも欠けているし、経済人にも欠けているし、世の中全体に欠けているよ」

 

 

 

佐野元春

『J Pop Legend Forum』2015.7.13 出演時の発言より



佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの新作『Blood Moon』が素晴らしい。
朝走る時は、こればっか聴いている。


地に足をつけ、リアリズム的な視点で世界を捉えることはとても大切なことだけれど、
ややもすると、それはただの現状追認や自己正当化の道具に堕して、
底の浅いニヒリズムに陥ってしまう。


理想をかかげ、社会の矛盾を糾弾することはとても重要なことだけれど、
自らの正義があまりに正し過ぎると、その正しさを証明するために、
必要以上に相手を悪魔化してしまう。


他者に対する共感(コンパッション)を欠いた主張は、意味がない。
それがどんなに正しくて、すじが通っていても、意味がない。
イデオロギーに関係なく、正し過ぎる論理は、その正しさゆえに、正し過ぎて使えない。


そこに矛盾があることは子供でも言える。
その指摘を子供扱いすることもまた、子供でも出来る。


多面的な現実の中で、解消できない矛盾をきちんと矛盾として見つめつつ、
どうやったらその矛盾を公正に扱えるのか?


その困難な問いに応答しようと立ち上がる時、人は「大人」になるのではないか?


「おっさん」になるのは実に簡単だが、「大人」になるのはむずかしい。


覗き込んだ鏡の中に、すでに「答え」は映っているのだ。
せめて、その「答え」と向き合うぐらいの勇気は持っていたい。


欠けているのは「ユーモアのセンスと官能」


佐野さんらしい素敵な言葉だ。
 
2012.03.11 Sunday

部屋と原発と私


春だ。



なんだかちっとも春らしくなってくれないけれど、時間は僕達の上をいつも平等に流れる。




僕の春は、三月になるやいなや、まるで森の奥で熊が冬眠から覚めるように正確に、ミツバチが蜜を求めるように仲むつまじく、くしゃみと鼻づまりと一緒に手を取り合ってやってくる。



相変わらず今年もマスクはしない。薬は飲まない。



花粉症は病気じゃない。だから対策は一切しないと決めたのは5年程前だろうか。

今年は少し症状が軽くなってきたように思います。




親切に『この薬効くよ』とか教えてくれる人もいたけれど、できるだけ薬は飲みませんでした。




そう、薬は効くのだ。そこが素晴らしくもあり、問題なのです。

効くと人はそれに頼ってしまう。



いや、頼らないまでもたとえば、「つまらないことで我慢するより、使えるものは便利に使って効率良く快適に暮らそう」などと考えてしまう。

たしかに、快適に暮らそうとすること自体は間違いじゃない。全然ない。

けれども、「その快適さとひきかえに失うものもあるのだ」ということをしばしば人は忘れてしまう。



そのことに無自覚になることが恐ろしいと思うのだ。



もちろん、対策はしないといっても何もしてこなかったわけではなくて、体質改善になるからとヨーグルトを食べたりとかはしたことはあったのだ。のだけれど、去年からはそれもやめた。

そういう、「ああしたからこうなる」的な方法は短期的にみれば効果があるようにも思えるけれども、長い目でみると結局自己満足に終わっているように思えたからだ。



とにかく、何かトラブルの原因を自分の外に求めて、自分は清潔で無実な被害者だという安全地帯からものを考えてしまうのが嫌になったということなわけで、今も嫌なのです。



そうではなくて、花粉=悪者、自分=善人みたいにして花粉をシャットアウトするのではなくて、花粉まで含めて自分と考えて、その関係を自分の内側から変えてゆけばいいのじゃないかしらん?




そう思ったのだ。




だから今年も何もしない。

そのかわりに自分と外界との関わりかたを変えることにした。



早寝早起き、部屋をきちんと掃除して、規則正しい生活をする。



これだけ。



これは、花粉のことだけ考えてそうしているわけではないですけれども。




楽器やっている人なら分かってくれるんじゃないかと思うのですが、体って変わります。

「年取ると若い頃みたいにはいかないよねー」という意味でももちろん変わるけれども、それだけではなくて、ギター弾くことひとつとっても、毎日根気よく入力してやれば、ゆっくりですが確実に変わるのです。

もちろん、そのためには、ただのマスカキザルになるのではなくて、自分がやろうとしていることをきちんと意識化してゆく必要があります。頭と体がフィードバックし合うようになればいい。

そうして、体が変われば、心が変わるはずなのです。





はてさて、僕は一体何の話をしているのでしょうか?




震災と原発事故から一年。

果たして変われたのかどうかはわかりませんが、また帰ってきました。




「お入りください」

「ありがとう」




桑原和男やん。




頭がおかしいと思われるかもしれませんが、僕の反原発は、くしゃみと鼻水と部屋の掃除からはじまるのです。


2011.04.17 Sunday

いろいろな"ものさし"


土曜日は、ふらっとライブを観に行きました。
昼間に室見で、相川理沙さん(ギタリスト・清水康弘君とのDuo)、夕方に天神でbigmamaの宅嶋淳さんのライブ。
どちらもすごく良かったのです。
唄が”立っている”人の演奏はいいなあ。


MCの中で先月の地震に関する話も出ました。
相川さんは、歌い手である自分に出来ることとして、ライブ活動を通じて募金活動を続けていきたいと語り、宅嶋さんは反対に、ライブを募金活動の場とすることに対するうしろめたさや複雑な気持ちを語ってくれました。


どちらの話も、語る人自身の生活実感から出ていることがよく分かる、血が通った誠実なコメントで、聴いていてとても共感できるものでした。


『ロックンロールは我々を苦悩から逃避させるものではない。悩んだまま踊らせるんだ』


ピート・タウンゼント・セッド


僕個人としては、自分のライブ活動を募金の場にするつもりはありません。大体、今の僕の場合、そんなことしてもただの自己満足にしかなりません。それなら、日頃の稼ぎから生活費を寄付したほうが、余程役に立ちます。


そういえば、先週も、Peaceでの本番前の控え室で、福島第一の原発事故のことや、斉藤和義の『全部嘘だった』という唄のことが話題になりました。その以前からもやもやしていて、その時ももやもやしていたことが、ずっともやもやしています。もやもや。



traini11.jpg


この絵、どこかで一度は見たことがありますよね。


後ろを振り返る貴婦人?
意地悪そうな老婆の横顔?
それとも?

19世紀のヨーロッパでさかんに描かれた、だまし絵のひとつです。


どちらに見えるかというロールシャッハ・テスト的な分析には、たいして意味はありません。
少なくとも僕にとっては。そういうの苦手なんです。


それよりも、この絵が『どちらにも見える』こと、
そして、見ている内に『なんだかよくわからないモノに見えてくる』こと


そのことの方が重要なことのように思えます。


なぜなら、これは『現実』というものに対する、僕達の認識のあり方そのものだからです。


言うまでもないことですが、メディア等でやりとりされる”情報”は、『現実(リアル)』をある恣意的な角度から切り取ったものです。


『ほら、この絵の若い貴婦人のうなじの美しいこと』と言われればそのように見えるし、

『どうです、この絵のお婆さんは底意地が悪そうですよね』と言われればそのようにも見える。


それは、ある一つの『シンプルな物語』です。
そして、それはまた、僕達を一種の”思考停止の状態”に置くことになる、ステレオタイプな紋切り型の物語でもあるのです。


でも、そういったシンプルな言説に警戒感を抱く人は少ないようです。


♪Don't follow the leader, watchin' parking meter♪


ボブ・ディラン・セッド


もちろん悪いことばかりではありません。
ステレオタイプな物語の良い効用は、僕達に一つの方向づけをしてくれて、なおかつ、とりあえずの安心を与えてくれることです。毎日、悩んだり、心配したりでは日常生活を営んでゆくのも大変です。
クイズの答えが分かってすっきりするのと同じですね。
黄門様の印籠は、どれほど陳腐でも、最後に出てこなければお話になりません。


けれども、”リアル(現実)”とは、エンドロールのないクイズ番組のようなものです。


そこでは、解答者たちは答え続けなければならない。
ハッピーエンドを迎えるおとぎ話にも、本当はその続きがあります。
物語の外にも、実際の”時間”は流れているのです。


右でも左でも、グローバリズムでもエコロジーでもいいのですが、何か一つのイデオロギーで”現実”を切り取る時、僕達は実際にはそこに”時間が流れていること”をついつい忘れがちになります。


最初にあげた絵ですら、物語を賦与される前である実際の”リアル”の次元では、ほんとうは何を描いてあるかよく分からない”点と線の集合”なのです。
二次元の無時間モデルですら、僕達は、はっきりと正確に認識することは出来ない。


実際に僕達が生きる三次元の”リアル”には、そこに”時間”という要素が入ってくるのです。
そこでは、実質的には、僕達には『何も分からない』と言ってもいい。


しかし逆に言えば、『何もわからない』という前提に立つことで、『何かを分かりたい』という姿勢を維持することが、かろうじて可能になるのだと思うのです。


リアルで起こる物事とは、『ああしたからこうなった』というような陰謀論的・単線的な因果関係では説明できないものです。
もちろん、おそらく、全ての説明は正しいのです。
ただそれは、その説明がリアルを切り取った角度のみにおいてしか成り立たないと思っていた方がいい。


現実(リアル)は僕達の視野より常に大きいはずです。
僕達はお釈迦様の手のひらの上の孫悟空なのです。
便利なツールとしての説明を手に入れた時、その切れ味に熱中するあまり、僕達はそのことを忘れがちになる。



話が飛びますが、たとえば、『どうしたらブルースが弾けるようになりますか?』という問いに対して、


『ペンタトニック・スケールをおぼえましょう!そうすれば、明日から君もクラプトンだ!』と答えるのは確かに”嘘”ではありません。後半部分は嘘ですが、嘘も方便ということもあります(笑)。


『とりあえず十字路に行って悪魔と取引したら、後は毎日しこたま酒を飲んで、女とやりまくれ!』というのも”嘘”ではありません。嘘を言うなら、こちらの方がまだましな気もしますが。


まぁ、こういったお馬鹿な質問には『自分で考えましょう!』と言っておけばいいような気もしますが、あえてどうしても答えなければならないのなら


『弾きなさい。弾き続けなさい』


と答えるしかないのではないでしょうか?


なぜなら、”十年弾き続けて、ブルースを弾くとはどういうことか少し分かった時の自分”のことを、”今の自分”は分からないからです。”時間”が流れれば、”自分”は変わるのです。


それは、”その時の自分”にしか分からないことです。
もしかすると、その時の自分にも分からないかもしれない。


しかし、人間は、『分かったからやる』のではないでしょう。
『やったから分かる』のです。



話が脱線してしまいましたが、”時間の経過による人間や現実の変化”を関数に入れない全ての”How To”や物言いは、現実を切り取るためのツールとしては便利でも、それを全面的に信用してしまうのは危険なことだと思うのです。


そんな人はいないとは思うのですが。


僕達には、色んな大きさの”ものさし”が必要なのだと思います。

今、起こったことに即座に反応するための”ものさし”。
100年単位のもっと長いスパンで物事を考えるための”ものさし”。


それは、時には互いに矛盾する答えを出してしまうように見えることもあると思うのです。けれども、今はその矛盾を抱えたまま、踏ん張って考え続けていくことが大事なことのように思えます。


『矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱うこと』


最近読んで、あぁいいなと思った甲野善紀さんという武術家の言葉です。


逆に、今、僕が一番恐いのは『正義』や『善意』といった言葉。
それは、どこか一方向へ僕達を連れて行こうとする言葉です。


リーダーにはついてゆくな。
パーキングメーターに気をつけろ。



1965年。46年も前の唄です。


YouTubeで動画を探していたら、Rickie Lee Jonesのカバー・バージョンも見つけました。
60年代、公民権運動華やかなりしNYはビレッジの映像をバックに、音の方は"Suzie Q"を想わせるダウンホームな仕上がりで、こちらも良いですね。



今日は長めのひとりごとでした。



2011.03.20 Sunday

The Bright Side Of The Moon

 


なんだか地に足のつかない一週間でした。



18日のライブに来て下さった方、ありがとうございました。

久しぶりに、演奏者の方がお客さんより多いライブをやってしまいました。

少し、反省しています。

演奏は、僕の花粉症の鼻声を除けば、相変わらず充実していたと思います。

"Home"はとても演奏しやすいお店でした。オーナーの森さんは確かな耳を持っている方なのでとても信頼できます。改めて、PAは『設備』ではなく『人』なんだなとつくづく思いました。




福岡は今日は終日雨。



全然知らなかったのですが、昨夜の満月は『スーパー・ムーン』と呼ぶのだそうです。

太陽、月、地球が一直線になり、地球と月の距離が最短になることで、最小の時と比べて14%大きく、30%明るく見えるのだそう。もっとちゃんと見ておけば良かった。


1992年以来、19年振りだとか。



top.jpg


ネットから拾った写真です。場所は、ロックフェスでも有名なイギリスのグランストベリー。



地震と結びつけて考えるむきもあるみたいですが、たとえば無関係な点が三つあれば、そこにあるはずのない何かの"顔"を見つけてしまうのが、人間の目であり、脳のはたらきです。



いや、それ自体は良くもないし、悪くもない。

イマジネーションは人間が人間である理由の一つであるはずだからです。



小さい頃、押し入れにもぐりこんだことありませんか?



親に隠れて押し入れにもぐりこみ、引き戸を中から閉めると、戸の隙間からもれるわずかな光を残して、あたりは柔らかな闇につつまれます。



干した後の布団にしみ込んだ、汗や日向の匂い。



だんだんと暗闇に目が慣れてくるにつれ、天井の板の木目に浮かんでくる幾つもの顔にわくわくしながら、たわいもないお話を思い描いて時を過ごしたことは、今思えば、とても贅沢で素敵な時間だったと思います。



『想像すること』は人間にとって大切なことです。



だからこそ、今は、無闇に不吉な連想を働かせるより、月の明るい輝きに新しい意味を思い描きたいと思います。



もちろん、月の光が強く僕達の心を惹き付けるのは、そこに『The Dark Side Of The Moon』が常に存在するからです。それこそが月の神秘性を担保しているのです。



そうでなければどうして、闇に浮かぶその姿に魅せられた人間達が、有史以来、月をめぐる様々な物語をつくりだしてきたでしょう?



”光”と”闇”は、それぞれが独立して存在するのではなく、お互いの中にお互いを内包することで初めて存在することができるのです。



別に僕が考えたことじゃありません。『聖書』でも『古事記』でも『One Piece』でも、読めばちゃんとそう書いてあります。





今夜、ここから月は見えません。



でも忘れてはいけないのは、たとえ見えなくても月はそこにあるということなのです。




2010.05.04 Tuesday

“オーケーベイベー、もう一発やるかい?”


というわけでゴールデンウィークです。あれからもう一年経ったんだ。


最近、やっとRCサクセションを冷静に聴けるようになった。


RCのレコード・CDは、あまり音がよくない。


いや、もっとはっきり言おう。


録音がしょぼい!


トホホ...。


それは、プロデューサー不在(もしくは機能していない現場)のバンドレコーディングの悪しき典型である。


と言って差し支えない。


あぁ、石が飛んでくる。


今聴いて、いい音だなと思えるアルバムは、『シングルマン』と『Baby a Go Go』ぐらいだ。つまりそれは、星勝とヘンリー&デヴィッド・ハーシュ(初期レニー・クラヴィッツのプロデューサーでしたね)の功績が大きいということだ。


『Please』も『Blue』も『BeatPops』も『OK』も、音はホントにひどい(ボーカルは凄い!もちろん、いわずもがな)。同時期の日本のロックと比べてもあんまりだ。これは清志郎も何かのインタビューで自ら認めていた。


ここまで読んでくれたあなた、何故、そんな悪口みたいなことを書くのか?お前何様だ?ざけんじゃねーよ!とお思いでしょう!そうでしょう!僕もそう思う!


いや申し訳ない。何も言いたいことはそんなことじゃないのです。もう少し読んでね。


“一体何と比べてそんなにダメなのか?”


その答えは


“Live”です。“ライブ”


あぁ、そうでしたとも。


RCのライブの圧倒的な昂揚感とその祝祭性を体験した者達の中の一人としては、音源のショボさはなんとも許しがたく。口惜しいものなのです。


忌野清志郎死後、時折各種メディアで、『雨上がりの夜空に』を耳にする機会がありました。


で、それが何故か決まって、シングル・バージョン(『EPLP』にも入ってるあれです)なんですね。


あれ、僕ちょっとがっかりするんです。


『なぁ、そこの若者、ちがうんだ!こんなもんじゃないんだ!RCはもっと素晴らしいバンドだったんだよ〜(泣)!』とわけもなく言いたくなってしまう。


一体何人のファンが、『雨上がりの夜空に』の決定バージョンとして、あのレコーディング・バージョンを挙げるというのか!?
(ましていわんや、清志郎とライムスターの競演バージョンをや!)


いやない。


絶対、ライブ・バージョンのはずなんです。あの時、あの場所で聴いた、あのバージョンのはずなんです。


でも、それを誰かに聴かせることは出来ない。(テープに録音してれば出来なくはないですが、体験そのものを聴かせることは出来ません)


まあ、ライブ盤もあるし、映像もたくさんあるんで、そっち見てくれればいいんですけどね。


でも、最近ふと気付いたんです。それってもしかすると素敵なことかもしれない。


『雨上がり〜』のベスト・トラックは(もちろん、他の曲でも)、RC・清志郎ファンだった人達の数だけあるんです。野暮ったい言い方だけれども、それは心の中にあって、いつでも好きな時にプレイバック出来て。そして、


誰にも消せないんです。


トリュフォーの『華氏451℃』のラストシーン。本を暗唱する人々が集まる森の中のように。僕達は一人一人語ることが出来る。


唄とは、唄う側にとっても聴く側にとっても、徹底して個人的行為であって、それは奪うことは何人たりとも不可能・インポッシブルなんです。


そんな贈り物を僕達にしてくれたあの人を、今年は部屋で一人思い出していました。


“後ろの奴ら、どうなんだい?”


“オーケー!チャボ!”


それは、古くなることがなく、いつでも新しい。毎日がブランニュー・デイ。


ありがとう、清志郎。
感謝します。
2010.04.20 Tuesday

才能


才能ってのは“通り道になる”ってことじゃないかなと思ってみる。


とりあえず。そう思ってみてください。


なぜなら才能というものは本来自分のものではないからだ。


スポーツでも音楽でも、経験者の方は同意してくれるのではないかと思うのだが、人間のパフォーマンスは


『自分より大きい存在を想像して、その存在に自分の能力を仮託する時』



そのような状態の時に最大化する。何故かはわからないけれど。



黒人ミュージシャンがグラミー賞なんかで、ギフトを与えてくれた神に感謝しますなんて言うのは、その好例だ。


それは、自分より標高が高い位置に巨大なダムを想定するのに似ている。


水が流れてくるのはあくまでもそのダムからであり、自分はその途中の小さな水路や池に過ぎないと想像し行動すること。


そのダムのことを、宗教家なら神と呼ぶ。科学者なら宇宙の法則と呼ぶだろう。どっかの国のエコノミストなら市場原理とでも呼ぶのだろう。


金田一少年なら『じっちゃんの名に賭けて』と言うだろうし、オビ・ワン・ケノービなら『ルーク、フォースを使え』と言うだろう。ロバート・ジョンソンなら『悪魔と取引したのさ』といってニヤリと笑うかもしれない。


ともかく、『ここには今存在しないけれども、私よりも優れている誰か・何かが、私の代わりに物事を遂行してくれている』と感じることで僕たちは、


『私』の外に出ること


が初めて可能になる。




僕たちに出来ることは、よりたくさん、美しい水が流れてきてくれるよう、お祈りしながら水路を整えることだけだ。


もちろん、僕たちそれぞれに与えられた条件は様々だ。


天才や才能豊かな人というのは、道で例えるならば、いわば幹線道路のようなものだ。


黙っていても、毎日人や車がひっきりなしに通る。
(たまには清掃車なんてのもいて、頼みもしないのに道をきれいにしてくれたりする)


僕なんかの才能は(そんなものがあるとすればだが)、さしずめ下町の小さな路地裏みたいなものだ。思い出した頃に誰かやってきて、あぁこんなとこに道があったんだ。知らなかったなーなんて言っては通り過ぎてゆく。


よき幹線道路はよき幹線道路であればいいし、よき路地裏はよき路地裏であればいい。


次に通る人がいい気持ちになれるように、ゴミを拾い、落書きを消し、小さな花が枯れないように水をやる。


毎日そうやって花に水をやり続けること。


その行為自体が、もしかするとすっごく幸せなことだ。それは、あたりまえのことなんかでは決してない。


週末、福岡で、ある素晴らしいミュージシャンが若くして亡くなった。


彼について僕なんかがコメントするなんてことは、彼を愛していた人達に対して大変失礼だと思うので遠慮させていただく。


残された者たちに出来ることは、今日も道を浄め、花に水をやることだけだ。


ご冥福をお祈りする。
2010.04.03 Saturday

今日のお祈り


前回、ギターのことが最近色々わかってきた。と書いた。


“わかった”とか“壁を越えた”とかいうのは、実は危うい。


非常に危うい。


あることが『わかった!』と思うことは、その他無数の選択子を意図的に排除している可能性があるからだ。


どうも人間の脳は、そう考えたがるクセがあるように思う。


以前何かで読んだ話だけれど、“家系図”というものがある。


あれは実はおかしい。


すっごく変なものだ。


たとえば、『私は藤原のだれそれよりたどって第十何代目かの子孫だ』ということを言うためには、


そのひとつのライン以外の無数の人々を、意図的に、または無意識に、“見なかったこと”にする必要があるからだ。


だってそうでしょ。単純に考えて、僕には父と母がいて、その父と母にも父と母がいるわけで、『もし俺の記憶が確かならば』、その四人の“父と母のそのまた父と母”にもやはり父と母がいることになる。


『はい、私がカイウンケンジです。平のだれそれの子孫です』と署名捺印することは、その
七組の父たちと母たちの中から四組を自動的に削除することを意味する。


意味するよね?


これに、養子縁組やら、再婚やらの話が入ってくれば話はさらにややこしくなってくる。


そんな無数のご先祖の中から、恣意的に直線を引いたものが、家系というものだということになる。


変でしょ?
変じゃないかな?


逆に言えば、そのような直線を引かなければ、家系図というストーリーは成立出来ないということだ。


『わかった!』という状態には、これと非常に似たところがある。


脳に刻まれてゆくシワのように、僕たちは世界に切れ目入れて、そこにあるはずのないメッセージを読み取ろうとする。


シンプルな言葉とか、力強いポジティブな言動というのは、とても魅力的だし、時にとても有効だ。
それは、まるでよく効く抗生物質のように(漢方薬や有機野菜がいいと言ってるわけではないの。だって、それもひとつのイデオロギーでしょ?毒食ったってどうしようもなく生きようとするのが人間でしょ?)。


世界が、E=mc2で全部説明出来れば、これほど楽なことはない。


誰でも『こうすればいいんだよ』と言ってくれる人が欲しい。


少なくとも僕は欲しい(笑)。もし、How To通りに全部出来れば出来るにこしたことはないと思う。


でも、それは何かに目隠しをすることにもなるということだ。


それがいけないと言ってるわけではない。


断じてない。


そんなことを言ったら誰も何も出来なくなってしまう。何をどう考えようと、それはその“考え”を考えた人の自由だ。


ただ、人間というものは、そういう風に不可避的に考え、行動してしまう生き物だ。


I think.


ということだ。


ギターひとつとってもそうなのだ。


主よ、願わくば、『牛丼における七味唐辛子ほどの懐疑と恥じらい』を今日の私にくださいますように。


かしこ
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